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[91] 民主化って何ですか

投稿者
放送記者 中島風
投稿日
08/29 12:16

 1987年のことだったと思う。大学の構内で、知り合いの女子学生が抱えていた雑誌が目に入った。表紙のカラー写真では、デモ隊と警官隊が対峙していた。

 「韓国の民主化運動の記事が載っている」

 彼女はそう説明してくれたが、私はどうもピンと来なかった。民主化?民主主義など当たり前のことではないのか。韓国は民主主義の国ではないのか。

 そのとき隣国で起きていることが理解できなかったのは、私が民主主義などわざわざ意識する必要のない環境で生きてきたからだ。

 それから22年。2009年8月18日の午後、ソウル市内を走るバスの中で金大中元大統領の訃報を聞いた。翌日、市内の中心部にある「ソウル広場」を訪ねてみた。市庁とプラザホテルに挟まれた芝生の広場には、死去の翌日だというのに、すでに立派な弔問所ができあがっていた。正面には金大中氏の大きな遺影が掲げられている。献花に訪れた大勢の人々が白いテントの下で静かに列を作っていた。

 その2か月と少し前、私が同じ場所で目撃したのは、まったく異なる光景だった。

 5月23日、盧武鉉前大統領が自殺した。盧武鉉氏は妻や親族が受け取ったとされる不正資金について検察の捜査を受けていた。6月10日、ソウル広場に陣取った民主党などの野党や労組をはじめとする左派陣営は「盧武鉉前大統領の死は李明博の責任だ」と拳を振り上げた。中には現政権を「殺人政権」と呼ぶ人までいた。

 保守派の李明博大統領が、検察権力を濫用して盧武鉉前大統領を死に追いやった、というのが左派勢力の主張だ。盧武鉉氏の死をきっかけに李明博政権のあらゆる政策に対する不満が爆発していた。広場には異様な空気が流れていた。

 その時と比べると、金大中元大統領の遺影が見おろす8月のソウル広場に政治運動的な空気は感じられなかった。ただ、その遺影に花を手向ける人々の姿は、ひとつの大きな時代の終わりを見せつけていた。

 金大中氏は、金泳三元大統領と並ぶ民主化運動のリーダーだった。たび重なる投獄と自宅軟禁。73年に東京で起きた韓国中央情報部による拉致事件では海中に投げ捨てられる寸前だった。80年に起きた光州事件の主謀者とされ、軍法会議で死刑判決を受けたこともある。彼が歩くとき足を引きずっていたのは、乗っていた車にトラックが突っ込んだ時の後遺症だ。この「事故」も朴正煕政権による暗殺計画だったとみられている。

 そして、私が民主化の意味すら知らなかった87年は、韓国の民主化が大きく前進した節目の年だった。

 報道機関が政府の統制下に置かれ、拷問で人が死んでいた時代のことだ。各地で起きた市民による激しいデモに追いつめられ、全斗煥大統領は国民が直接、投票で大統領を選ぶ「大統領直接選挙制」の導入を認めざるを得なくなった。独裁の終わりを意味するこの制度変更は民衆の力で勝ち取ったものだが、やはり金大中、金泳三という2人のリーダーなくして韓国の民主化は成し得なかったといわれる。

 金大中氏は98年に大統領に就任し、北朝鮮との宥和を図る「太陽政策」を推進させる。2000年には金正日総書記との首脳会談を実現させ、南北関係は大きく進展したが、資金提供を受けた北朝鮮が核実験やミサイル発射を強行したことで強い批判も受けた。

 金大中氏は、太陽政策の継承者でもあった盧武鉉前大統領の自殺についてどう考えていたのか。6月の初めに秘書を通じて金大中氏に取材を申し込んだが、応じてはもらえなかった。しかしその後、6月11日に行われた南北共同宣言の記念行事に出席した金大中氏は車椅子で登壇すると、決然とこう言い放った。

 「私たちは過去に李承晩、朴正煕、全斗煥という3人の大統領を国民の力で打ち負かし、民主主義を守りました。私たち国民は独裁者が現れたとき、必ずそれを打ち倒し、民主主義を取り戻してきたことを肝に銘じなければなりません」

 現職の李明博大統領を「独裁者」という言葉を使って非難したのだ。

 今は軍人がクーデターで政権を掌握し、政権交代が不可能なシステムで権力を維持する時代とは違う。韓国はすでに「軍事独裁か民主化か」という極端な選択を迫られる時代ではない。朴正煕、全斗煥という本当の独裁者と闘ってきた彼が口にする「独裁者」の響きは、重すぎる。自身の後継者であった盧武鉉前大統領に先立たれた悔しさが強い言葉を語らせたのだろうか。

 拷問や粛清に怯えることなく自由にものが言えるのも、誰の干渉も受けずに投票できるのも、すべて民主主義という基礎があってのことだ。民主主義だとか言論の自由だとか口にするのは気恥ずかしいが、それは私たちが民主主義の価値に気づいていないからだ。

金大中元大統領に、あらためて哀悼の意を表したい。

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